「朝鮮の民に自由と光明を与えたまえ」。時は約140年前の1885年4月のイースター。
仁川済物浦港に到着したメソジスト派宣教師のアペンゼラーと長老派宣教師のアンダーウッドが祈りを捧げる。
見知らぬ東洋の地を踏んだ西洋人宣教師たちは、教会や病院、学校を建て、病人の世話をし、福音を実践する。
朝鮮人を診療した宣教師の献身的な働きから船上で洗礼を行うしかなかった話まで、様々なエピソードを秘めた仁川の教会を巡ることは、地域の近代文化遺産を巡る時間であり、信仰の軌跡をたどる旅といえる。
貧しい朝鮮人を世話した「薬大人」の足跡が残る大韓聖公会仁川内洞教会
内洞教会の庭には「英國病院」と刻まれた小さな標石がある。そうだ。
ここには仁川最初の西洋式病院である聖ルカ病院があった。
病院を率いたのは、1890年に英国海軍従軍神父のチャールズ・ジョン・コーフ主教と共に朝鮮に来た内科医で宣教師のエリ・バー・ランディスだ。
朝鮮人はランディス博士を「薬大人(開化期に用いられた西洋人医師の呼称)」と呼び、深く尊敬していた。
黄海道や忠清道からも患者が来るほどだった。彼は昼夜を問わず働いた。
昼間は病人を無料で診療し、夜は英語を教えた。病気の治療にあたっていた彼は、過労が重なるとともに腸チフスにかかり、32歳にしてこの世を去った。
朝鮮を愛した医師は、韓服のトゥルマギをまとって葬られた。
博士が他界してから半世紀以上経った1956年、英国参戦勇士や遺族の寄付を受け、韓国戦争で破壊された病院の建物を取り壊して建てられたのが現在の教会。
灰色の花崗岩を積み上げた中世風の石造建物には注目すべき点がある。
切妻屋根(本を開いて伏せたような形の屋根)を模した屋根を載せ、韓国の伝統的な軒様式が加えられているのだ。このことから聖公会の土着化方針がうかがえる。
韓国初のメソジスト教会、内里教会
アペンゼラー宣教師が1885年7月に最初の礼拝を行った韓国初のメソジスト教会。1901年、1955年、1966年、1984年。
壁には4つの定礎が埋め込まれており、教会の長い歴史を物語っている。
簡素な韓屋から始まった教会は、次第に信者が増えたため1901年に赤レンガの建物を建て、「ウェスレー(メソジスト派創始者)礼拝堂」と名付けられた。
その後、何度か改築されながら約140年もの間その場所を守り続けている。
アペンゼラー・ビジョン・センター3階の内里歴史展示館では、教会の発展史が一目でわかるように展示されている。
教会は1900年代初めに、韓国人のハワイ移住にも大きな役割を果たした。
ジョージ・ジョーンズ牧師が駐韓米国代理公使と共にハワイに行く信者を募集したのだ。
その結果、1902年12月末にハワイへ向かった移民団102人のうち50人が内里教会の信者だった。
彼らはサトウキビ農場で働きながら韓国人メソジスト教会を建て、独立運動を支援しながら祖国を懐かしんだ。
韓国初の初等教育機関である永化学堂(現永化小学校)を設立し、韓国初の韓国人牧師である金箕範(キム・ギボム)牧師を輩出するなど、「韓国初」のタイトルを数多く持つ教会でもある。
- 住所仁川広域市中区又玄路67番ギル3-1
- お問い合わせ+82-32-760-4000
- 利用時間 礼拝時間-聖日の7:00、8:50、11:00、14:00など
- ウェブサイト naeri.co.kr
1946年に出発し教育宣教に力を注いだ仁川第一教会
仁川第一教会のキーワードは大きく2つある。1946年と教育宣教だ。仁川初の長老派教会である仁川第一教会は、1946年に建てられた。
韓国初のメソジスト教会である内里教会より60年も遅く建てられたのだが、その理由が興味深い。
一言で言えば、仁川は長老派の宣教地域ではなかったが、分断後に状況が変わったというのだ。プロテスタントが伝来して初期の頃、朝鮮に来た外国人宣教師たちは「宣教地分割協定」を結んだ。
教派の間で地域を分け、過当競争を防ごうという趣旨からだ。これに伴い、現在の北韓に属する平安道と黄海道は北長老派、湖南は南長老派、仁川・忠清・江原道はメソジスト派が担当することになった。
しかし、南北分断後、信仰の自由を求めて北韓から多くの長老派信者が仁川にやってきた。そこで彼らのために建てられたのが仁川第一教会だ。
教会は幼稚園や学校を設立し、教育宣教に力を注いだ。1947年のムグンファ幼稚園開園を皮切りに、ムグンファ公民学校(現仁聖小学校)やポソン女子中学校仁川分校(現仁聖女子中学校)を建設し、子どもの教育を受ける権利を啓発した。
韓国戦争中の1952年にはダビダ母子院を開院し、避難民や未亡人、孤児の安息の場となった。
- 住所仁川広域市中区新浦路39番ギル54
- お問い合わせ+82-32-760-4000
- 利用時間 礼拝時間-聖日の7:30、9:30、11:30など
- ウェブサイト fpci.or.kr
入母屋屋根を載せた韓屋聖堂、江華温水里聖公会聖堂(教会)
仁川広域市有形文化遺産に指定された韓屋聖堂(聖アンドレ聖堂)。1906年に英国人主教マーク・トロロープが建てた聖堂(教会)は、建築様式がかなり独特。
正面9間、側面3間の本堂は入母屋屋根(上部が切妻造、下部が寄棟造になっている屋根)を載せた韓屋だ。
棟(屋根の最も高い所)の両端にある十字架を除けば、立派な両班の屋敷のように見える。
東洋と西洋の建築様式を折衷した建物は、韓国に来た初期の聖公会が異国の地で住民に親しみを持ってもらえるように努力したことをうかがわせる。
教会は吉祥小学校の前身であるチンミョン学校を設立するなど、教育事業にも力を注いだ。
教会内には100年前に使われていた遺物がそのまま保管されている。その隣には2004年にロマネスク様式で建てられた新しい礼拝堂があり、青々とした芝生と古風な教会がよくマッチして写真映えする。
江華島に「宣教」という種が蒔かれ、実を結んだ江華橋山教会
「ジョーンズ宣教師が村に足を踏み入れたら、洗礼を受ける者の家に火をつけてやる」。
書堂教師のキム・サンイムが、内里教会信徒の李承薫(イ・スンフン)を脅した。
李承薫の老母に洗礼を授けるために江華島まで来た当時の内里教会の牧師ジョージ・ジョーンズ宣教師は、結局その地に足を踏み入れることなく、深夜に船上で洗礼を授けた。
江華島に「宣教」という種が蒔かれる瞬間だった。
その後、何人かの村人がイ・スンファンの家で礼拝を行い、1893年に江華橋山教会が建てられた。
江華島民がキリスト教をはじめとする西洋文明に大きな反感を抱いたのは、当時、丙寅洋擾(1866年)・辛未洋擾(1871年)という外国からの侵攻を二度も立て続けに経験したからだ。
江華島の北西部に位置する教会は、静かな趣がある。入口の船上洗礼のオブジェが教会の成り立ちを物語っている。
驚くべきなのは、キリスト教を排斥していたキム・サンイムが後日信徒となり、宣教の先頭に立ったことだ。
「キム・サンイム伝道師功徳碑」が彼の劇的な人生を伝えている。
教会横のキリスト教宣教歴史館では、ジョーンズ宣教師の顔が描かれたレリーフから初期の教会の様子まで、江華島に福音が伝播した過程が見られる。
- 住所仁川広域市江華郡両寺面西寺ギル296
- お問い合わせ +82-32-932-5519
- 利用時間月~土曜日10:00~17:00、日曜日休館
- ウェブサイト e gsch.co.kr